7/28/2023

4年ぶりのお神輿登場 志手天神社

子ども神輿 4年ぶりに町内練る




 7月24日朝。志手天神社では夏祭りの準備が行われていました。この日の夕方、子ども神輿が4年ぶりに町内を練り歩くことになっています。

 祭りの準備は15日と24日の2回に分けて行われました。久しぶりの祭りということで、長年祭りの準備に携わってきた人でも少し勝手が違うといった感じもみられましたが、ほぼ予定通りに準備が完了。あとは神輿の本番を待つだけとなりました。

 これで心配なのは雨だけ。天気予報によると、午後から雨。夕方はそれなりに降るようで、雨量によっては25日に順延になるとのことでした。


 幸い5時以降はパラパラと降る程度で、子ども神輿は予定通りに実施することになりました。神輿に御神体を移し、神輿が拝殿を出たのは5時40分。境内で少し神輿を担ぐ練習をした後で、お宮を後にしました。


 例年なら、
町内のあちこちに設けられた休憩所で水分補給したり、休んだりしながら町内を一回りするのですが、今年の巡行は短縮版。いつもの半分で、練り歩く時間も午後6時から8時が予定されていました

 しかし、実際に町内を回り始めると、想定したよりもペースが速く、さささっと一巡りしてしまいそうな感じにみえました。例年と違う巡行路、初めてのルートということで、ここでも少し勝手が違ったようです。

 

 子どもたちに担がれて神輿が志手天神社前まで戻ってきたのが7時20分頃でした。境内で最後に神輿を回し、拝殿に神輿をあげて、御神体は戻されました。

 全部が終わったのは、まだ少し明るさが残る、もうちょっと練り歩いてもよさそうな、そんな時間帯でした。

 準備したり、後片付けしたり、裏方で祭りを支えている関係者は大変ですが、地域の恒例行事が復活することは嬉しいことです。来年はもっと多くの子どもたちが参加して、さらに賑やかなものになればと思います。
 

7/18/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験②

 

園田英雄さん 消えない戦争の記憶②

空から火が 学徒動員の工場直撃


 
 エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)から、園田英雄さん(故人)の証言を見ていきます。

 この本については「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①」(2023年6月21日公開)で紹介しています。1930年代から1950年代にかけて戦争や占領を経験した大分の人たちの話を、立命館アジア太平洋大学(APU)の教授だった筆者らが聞き取り、まとめた本です。

 単純に証言を羅列したものではなく、日米の資料などを駆使して体系的にまとめられた貴重な本だと思います。

 この本に登場する証言者の一人が園田英雄さんです。英雄さんは志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより」の編集者で、「ふるさとだより」にも自らの戦争体験を書き、平和の尊さを説いていました。

 昭和20年3月 海軍航空廠で働き始める


 英雄さんの脳裏から生涯消し去ることができなかった一番の記憶といえば1945(昭和20)年4月21日の出来事だったのではないでしょうか。
 
 大分工業学校2年生だった英雄さんは、この年の3月10日から第十二海軍航空廠の工場で働き始めました。大分市中心部とは大分川を挟んだ対岸に海軍航空廠はありました(地図上)。 

 英雄さんは飛行機の木製品を作る工場で働きます。「金属が不足していたから木製で代用できる部品を作っていました。飛行機の背中にあるアンテナの柱が木になり、操縦席の前の計器盤、これもベニヤ板になります」。教授らの聞き取りに対して英雄さんは当時を振り返りました。

 戦線の拡大とともに男たちが次々に戦場に送り出され、労働力不足が深刻になってきます。男たちの穴を埋める手段の一つが学徒の動員でした。

 この本によると、1944(昭和19)年4月時点で第十二海軍航空廠には12,000人の工員がおり、このうち8,000人は学生だったといいます。男女の勤労学徒は1945(昭和20)年の初めには16,000人に上ったそうです。

 英雄さんも勤労学徒の一人となります。そして、英雄さんは工場勤務を始めてすぐに初めての空襲を体験することになります。

 右は大分合同新聞1945(昭和20)年3月19日付。「敵艦上機九州南部」「東部に波状来襲」という見出しがあります。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

7/03/2023

4年ぶりの夏祭り 志手天神社

チキリン、太鼓に子どもみこし

4年ぶり夏祭り準備 志手天神社



 
7月1日夕方の志手天神社。久しぶりに太鼓とチキリン(鉦)の音が聞こえてきました。子どもたちが集まって太鼓やチキリンをたたいています。この日、天神社の夏祭りに向けた練習が始まりした。

 志手天神社の夏祭りは7月24日と決まっています。祭り当日は夕方から夜にかけて、子ども神輿(みこし)がチキリンと太鼓のお囃子(はやし)とともに町内を練り歩きます。

 新型コロナウィルスの大流行があって、志手でもよそと同じように祭りなどの地域行事を取りやめてきました。

 夏祭りは2019(令和元)年7月以来になります。

 左の写真は4年前の夏祭り。お旅所で休憩中にチキリンをたたく子どもたちです。

 コロナの流行も完全に収まったとは言えませんので、念のために今年は神輿が練り歩く時間と距離を従来のほぼ半分に短縮するそうです。

 地域の行事はいったん途絶えると、復活させるのはなかなか難しいことです。季節の風物詩ともいえる行事がなくなるのは寂しいことなので、ともかくも夏祭りが再開することは嬉しい話です。

 子どもたちの太鼓の練習を始める2日前の6月29日。薄っすらとほこりをかぶっていた太鼓とチキリンが引き出されて、小さな拝殿に据えられました。

 太鼓は7台、チキリン(鉦)は5個。一緒にほこりをまとっていた扇風機も出され、それぞれきれいに拭かれて所定の場所へ。それが右の写真です。
 
 写真で五つ並んだチキリン一番右のものが古く、明治時代かそれ以降か、随分と昔のものだといいます。

 夏祭りの子ども神輿がいつごろから始まったのでしょう。はっきりしたことは分からないそうです。

 

 志手天神社についてはこのブログの「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月31日公開)で紹介しています。


 【追記】

 最後にチキリンについて。大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

 撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。

 

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...