7/31/2025

子ども神輿 志手天神社夏祭り

夏の風物詩 子ども神輿 

志手天神社で元気に舞う



 子ども神輿が志手天神社を出たのは午後6時前でした。そして、志手町内を巡ったお神輿が志手天神社に戻ってきたのは7時40分頃でした。


 神社を出発する頃はまだ残っていた夏の太陽の輝きは消え去り、神社に戻るお神輿は薄暮に包まれていました。

 日が落ちると暑さが一服したようにも感じます。

 そのせいでしょうか、子ども神輿は志手天神社に近づくにつれて元気が出てきたようにも見えました。

 ちなみに志手天神社の夏祭り当日(7月24日)の気温はどれくらいだったのでしょう。気象庁のデータを見ると、大分市では35.0℃を記録し、7月9日(最高気温35.3℃)に続く「猛暑日」となっていました。



 関係者が熱中症対策でこまめな休憩と水分補給を心掛けたこともあり、お神輿は順調に天神社に戻り、境内で何回も力強く舞いました。

 来年も多くの子どもたちが参加して元気に地域を練り歩いてくれればいいなと思います。


 子どもたちの神輿は来年7月24日までお宮で時を待つことになります。

 このブログ「大分『志手』散歩」では、これまでも志手天神社の夏祭りについて書いています。

 「志手天神社夏祭り当日」(2024年7月31日公開)
 「4年ぶりのお神輿登場 志手天神社」(2023年7月28日公開)

 

7/19/2025

もうすぐ夏祭り 志手天神社

    もうすぐ夏祭り 志手天神社


 志手天神社の夏季大祭は毎年7月24日に行われます。その準備作業が7月12日にありました。

 普段は仕舞われている祭り関連グッズがいろいろあります。のぼり(上の写真)もその一つ。境内で組み立てられて町内 各所に立てられました



 のぼり(幟)がはためているを見ると、祭りが近いことを実感します。


 7月12日はお囃子のチキリンの練習が行われる日でした。

 志手天神社の夏祭りのメイン行事といえば子ども神輿です。そして、このお神輿に欠かせないのが子どもたちによるお囃子です。

 今年も6月28日、7月5日、7月12日と3回練習が行われたようです。


 チキリンについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手天神社夏祭り2024」(2024年7月14日公開)で説明しています。

 去年のブログのチキリンの説明は、一昨年の説明4年ぶりの夏祭り 志手天神社」(2023年7月3日公開)を引用したものです。今回も借用します。コピー&ペーストは簡単なのでついやってしまいます。


【チキリンについて】


 大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

  撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。


7/11/2025

天神社 志手村と長水村の関係は?

 志手村と長水村の関係は?

志手天神社 灯籠の不思議



 このブログで2025(令和7)年4月24日に公開した「
お大師様とお接待 志手天神社」の最後に予告めいたことを書きました。

 その時の予告めいた文章を以下に引用します。

「(五つの石造物のうち)左端の石造物については紹介しましたが、右端のものには触れていません。説明し始めると少し長くなりそうな事情がありますので、ここでは取り上げず次の機会に紹介しようと考えています」

 上の写真は志手天神社の境内にある石造物です。

 五つの石造物のうち、そこに刻まれた文字が読み取れるのは2基です。

 一つは写真左端のもの。4月24日公開の「お大師さまとお接待 志手天神社」では、写真左端の石造物について少し紹介しました。

 もう一つが右端の石造物です(右の写真)。表面に彫られた文字は読めるのですが、どう解釈すればいいのかちょっと分からないところがあります。

 それで「説明すると少し長くなりそうな事情がありますので」と「お大師さまとお接待 志手天神社」では言葉を濁して先送りにしました。

 よく分からないことの一つが右の写真にあります。

 正面には「奉寄進石燈籠」と彫られています。これは文字通り、石灯籠を寄進するということで、このブログの筆者にも分かります。

 その左側には「六月吉日」「大城吉右衛門」「藤原清房」と彫られています。日付は灯籠を寄進日でしょうか。吉右衛門さんは寄進者でしょう。

 よく分からないのは、そのあとの「藤原清房」です。

 ウィキペディアなどを見ると、平安時代に栄華を極めた藤原一族の一人に「藤原清房」という人物がいました。

 その人のことでしょうか。しかし、それがなぜ、この石灯籠に刻まれているのでしょう。謎です。
 
 さて、「奉寄進石燈籠」の右側にも何か文字が見えます。

 「正徳三年 癸巳 天 長水村施主」。正徳3年は西暦1713年。癸巳は干支で読みは「みずのとみ」。

 そのあとにある「天」がよく分かりません。「天長水村」でしょうか。しかし、志手村の隣り村で、昔このあたりにあったのは「長水村」です。

 この石灯籠は長水村の大城吉右衛門さんが寄進したと解釈できそうです。でも、なぜ長水村の住民が志手の天神社に寄進したのでしょうか。

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