志手村と長水村の関係は?
志手天神社 灯籠の不思議
その時の予告めいた文章を以下に引用します。
「(五つの石造物のうち)左端の石造物については紹介しましたが、右端のものには触れていません。説明し始めると少し長くなりそうな事情がありますので、ここでは取り上げず次の機会に紹介しようと考えています」
上の写真は志手天神社の境内にある石造物です。
五つの石造物のうち、そこに刻まれた文字が読み取れるのは2基です。
一つは写真左端のもの。4月24日公開の「お大師さまとお接待 志手天神社」では、写真左端の石造物について少し紹介しました。
もう一つが右端の石造物です(右の写真)。表面に彫られた文字は読めるのですが、どう解釈すればいいのかちょっと分からないところがあります。
それで「説明すると少し長くなりそうな事情がありますので」と「お大師さまとお接待 志手天神社」では言葉を濁して先送りにしました。
よく分からないことの一つが右の写真にあります。
正面には「奉寄進石燈籠」と彫られています。これは文字通り、石灯籠を寄進するということで、このブログの筆者にも分かります。
その左側には「六月吉日」「大城吉右衛門」「藤原清房」と彫られています。日付は灯籠を寄進日でしょうか。吉右衛門さんは寄進者でしょう。
よく分からないのは、そのあとの「藤原清房」です。
ウィキペディアなどを見ると、平安時代に栄華を極めた藤原一族の一人に「藤原清房」という人物がいました。
その人のことでしょうか。しかし、それがなぜ、この石灯籠に刻まれているのでしょう。謎です。
さて、「奉寄進石燈籠」の右側にも何か文字が見えます。
「正徳三年 癸巳 天 長水村施主」。正徳3年は西暦1713年。癸巳は干支で読みは「みずのとみ」。
そのあとにある「天」がよく分かりません。「天長水村」でしょうか。しかし、志手村の隣り村で、昔このあたりにあったのは「長水村」です。
この石灯籠は長水村の大城吉右衛門さんが寄進したと解釈できそうです。でも、なぜ長水村の住民が志手の天神社に寄進したのでしょうか。
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