10/16/2021

志手界隈案内➃桜ヶ丘聖地その4

 シベリア出兵、ユフタの戦いとは?③


 前回は大分連隊の田中支隊(支隊長・田中勝輔少佐)がユフタ付近に至ったところまで書きました。

 田中支隊を構成する大分連隊第三大隊の第十、第十一両中隊は沿海州のウラジオストクに近い場所(ニコリスクとスパスカヤ)に駐留していました。

 それが内陸部の黒龍(アムール)州へと出動命令を受けたのが1919(大正8)年2月20日。黒龍州では日本が「過激派」と呼ぶ武装勢力(パルチザン)と、日本の現地駐留軍との間で緊張が高まっており、過激派掃討のための援軍として田中支隊が召集されたのでした。

 ウラジオストクから遥か400里(1600キロ)というユフタ付近まで遠征した田中支隊の足取りをたどろうと、大分連隊と第三大隊の陣中日誌、当時の大分連隊長・田所大佐の著作を見てきました。すると、微妙なズレに気づき、それを書いていくうちに前回は長々とした文章になってしまいました。

 今回は、まずは第三大隊の陣中日誌で田中支隊の戦闘の様子を見てみたいと思います。その戦闘の様子は田所大佐の講話や、その講話を基にした浪曲「嗚呼田中支隊」によって脚色され、世間に広く知られるようになりました。

 ユフタの戦いで命を落とした将兵は大分市志手の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に葬られ、命日にあたる2月26日に毎年慰霊祭が行われていました。過去の慰霊祭の様子は新聞記事でもうかがうことができます。


 慰霊祭の記事が掲載された1920年(大正9)年から1945(昭和20)年までの新聞を見ると、戦争というものが今よりももっと庶民の身近にあったことも分かります。

 今回はユフタの戦闘について書き、新聞に見るユフタ慰霊祭は次回以降に改めて書きたいと思います。

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10/12/2021

志手界隈案内➃桜ヶ丘聖地その3

シベリア出兵、ユフタの戦いとは?➁ 


 さて、前回は、シベリア内陸部の黒龍(アムール)州で、日本が「過激派」と呼ぶ武装勢力(パルチザン)と、日本の現地駐留軍との緊張が高まり、過激派制圧のため、隣の沿海州に駐屯する大分(第七十二)連隊の田中支隊にも出動命令が出たところまで書きました。



 前回の「シベリア出兵、ユフタの戦いとは?①」で最後に使ったシベリアの地図をもう一度入れてみました。

 田中勝輔少佐を長とする田中支隊は大分連隊第三大隊の第十、第十一両中隊と機関銃隊で編成されました。両中隊は当時、沿海州のニコリスクとスパスカヤに駐留し、第三大隊長の田中少佐は大隊本部があるハバロフスクにいたようです。

 田中支隊はハバロフスクで合流し、シベリア鉄道を西へ、内陸深くへと進み、アレクセーフスクに至ります。そして、さらに進んだユフタ付近の戦闘で田中支隊は全滅したのです。

 ユフタ付近の戦闘が行われたのが2月25~26日。田中支隊が出動命令を受けた2月20日からわずか1週間後の出来事でした。その足取りを大分連隊と大分連隊第三大隊の二つの陣中日誌に沿ってたどってみます。

 二つの陣中日誌は国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページで検索、閲覧できます。
 
 ユフタの戦いの関連資料は、大分連隊長だった田所成恭大佐による「田所大佐講話筆記 田中支隊の戦闘真相」(1920<大正9>年)「弔合戦」(1921<大正10>年)「田中支隊戦闘記」(出版年不明)が大分県立図書館にあります。

 新しいものでは「シベリア出兵『ユフタの墓』大分聯隊田中支隊全滅の真相」(柴田秀吉著、2005・平成17年)が同図書館にあります。ただ、田中支隊で生き残った山崎千代五郎上等兵が書いた「血染の雪」はないようです。

 こうした著作も参考にしながら、田中支隊の1週間の足取りを追ってみたいと思います。

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10/05/2021

志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2

 シベリア出兵、ユフタの戦いとは?①


 
 
桜ヶ丘聖地(旧陸軍墓地)のすぐ近くにごく小さな丘があります。その上に大きな石碑が立っています。大分市の中心部に向いている方が表でしょう。こちらに「田中支隊記念碑」と彫ってあります。この字を書いた人物は「田所成恭」とあります。石碑の裏側に回ると「昭和8年2月25日」「連隊長田所成恭」の文字が見えました。

 この記念碑は1933(昭和8)年に建てられたようで、建立から90年近くが経過していることになります。

  長い間風雨に晒されてきたせいでしょう、赤い丸印で囲ったところの文字は読みづらくなっています。

 ところで、この大きな記念碑は「誰が」「何のために」建てたものだったのでしょうか?

 答えは、日本のシベリア出兵で、ロシア・シベリアに赴き、そこでの戦闘で戦死した大分の将兵などを慰霊するため、当時の大分連隊の責任者が建てた、ということです。

 
 左は慰霊碑が建つ2年前の新聞記事です。1931(昭和6)年2月27日付大分新聞(赤線は筆者が引きました)。記事は戦死者の法要での田所成恭大佐の挨拶を紹介したものです。

 田所大佐はシベリア出兵当時の陸軍歩兵第七十二(大分)連隊のトップでした。記事は、シベリア戦没者の13回忌の場で、田所大佐が遺族などに、戦死した田中中佐以下300名の英霊をまつる碑を建設することを誓った、と書いています。

 「田中中佐以下300名」とは1919(大正8)年2月25日から26日にかけてシベリア・ユフタ付近の戦闘で全滅した田中支隊のことです。

 記事の前段で、田所大佐は「シベリア戦戦死者は一時無駄死のように伝えられたこともあったが、決して無駄死ではない」「(今は)尊敬されています」などと語っています。

 田中支隊はなぜ無駄死と言われたのか。田所大佐らはその名誉回復のために何をしたのか。記念碑に込められた意味は。ちょっと経緯を探ってみました。

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メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...