蜜柑の副業?ため池に錦鯉
上の写真は、前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」(2025年9月29日公開)で使った写真を少し加工したものです。
何が違うのか。白い丸で囲った箇所が2カ所あります。それが新しく加わったものです。いずれも「ため池」があったと思える場所です。
旧志手村の「亀甲」(かめんく)の地図ですが、ここに塗りつぶされたような箇所が二つあります。これがため池だろうと思われます。
前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」の最後にこの地図を入れて、このブログの次回のテーマを予告しました。
その予告通りに、今回はこの二つのため池を題材にしてみようと思います。この二つの池はどこら辺にあったのでしょうか。このあたりかと予想して白い丸で囲ってみたのが冒頭の写真です。
と言っても、まったくあてずっぽうに囲ってみたわけではありません。参考にした資料はあります。
このブログ「大分『志手」散歩」の「地図から消えた『毘沙門川』」(2023年9月25日公開)でも紹介しています。
著者園田九洲男さんの子どもの頃(昭和20年頃)の思い出がつづられています。
当時の志手の子どもたちは、まずは毘沙門川(現住吉川)で水遊びを覚え、それから村堤(むらづつみ)で泳ぎを楽しむようになったといいます。
「としんかみ、でんしろらん、村堤、歌原堤、長水なども格好の遊び場であった」(「『志手』風土記」31貢)。
村堤に続いて「歌原堤」と書いてありますが、これは「駄原堤」の誤植のようです。
この二つ(村堤と駄原堤)のため池はどこにあったのか。「『志手』風土記」ではもう一つはっきり分かりません。
そこで別の資料も見てみることにしました。
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