11/29/2023

「国民哀悼の日」と桜ケ丘聖地 

独大佐の献花と「国民哀悼の日」


 
 11月24日午前。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の前を通りかかると、日本とドイツの国旗が掲げられていました。

 桜ケ丘聖地に2人のドイツ人の墓があることは、このブログで何回か紹介しています※。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の捕虜収容所で病死しました。

 ※新しいものでは「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」(6月27日公開)、古いものでは2021(令和3)年9月16日公開の「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」があります。

 第一次大戦から100年以上の時を経て、忘れ去られようとしていた2人の墓を再発見したのは、駐日ドイツ大使館付武官のカーステン・キーゼヴェッタ―氏でした。キーゼヴェッタ―氏は既に日本を離れ、その後任者がこの11月24日、桜ケ丘聖地の2人の墓に献花に訪れたのでした。

 駐日ドイツ大使館に赴任したカーステン・キーゼヴェッタ―大佐は、第一次大戦中に日本で亡くなったという曽祖父の弟の墓を探し、桜ケ丘聖地にあることを突き止めました。

 キーゼヴェッタ―大佐が最初にその墓を訪れ、献花したのは2019(令和元)年暮れのことだったそうです。上の写真は2020(令和2)年2月に撮影したものです。曽祖父の弟のユリウス・パウル・キーゼヴェッターの墓に供えたと思われるものがまだ残っていました。

 キーゼヴェッタ―大佐は2020(令和2年)11月に再び墓地を訪れました。その時はドイツ大使館主催の公式行事として墓参が行われました。

 公式行事としてなぜ11月に行ったのか。当時、ちょっと疑問に思ってドイツ大使館に問い合わせてみました。

 すると「大使館武官室では日本各地のドイツ兵の慰霊祭を『国民哀悼の日』にちなんでおこなっており、大分に伺いましたのもそのために11月でした」との回答を得ました。

 フリー百科事典「ウィキペディア」には、「国民哀悼の日」はドイツにおいて、戦没者ならびにナチ党の暴力支配の犠牲者を追悼する記念日である、とあります。1993年以来毎年11月の第3日曜日に大統領、政府閣僚、ベルリン駐在の各国外交団の臨席を得て式典が執り行われるそうです。

 ドイツ本国での慰霊行事に合わせて日本でも戦没者を追悼するということで、桜ケ丘聖地でも11月に献花式が行われたということになります。

 その様子はOBS(大分放送)とOAB(大分朝日放送)のニュースにありました。報道によると、
ドイツ大使館のラルフ・ベルジケ空軍大佐夫妻が桜ケ丘聖地を訪れ、2人の墓に献花し、追悼したとのことでした。

 ベルジケ大佐がキーゼヴェッタ―大佐の後任のようです。ベルジケ大佐は前日の23日に徳島県鳴門市の捕虜収容所跡を訪れています。

 NHK徳島放送局のニュースによると、鳴門市にあった「板東俘虜収容所」跡には、四国各地で亡くなったドイツ兵の慰霊碑があり、23日は慰霊碑前で献花式があったそうです。

 ベルジケ大佐は23日の徳島県鳴門市での献花式に出席後、大分市に足を延ばし、桜ケ丘聖地を訪れたということのようです。

 ちなみに第一次大戦の時に捕虜となったドイツなどの将兵の収容所は各地にありました。「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」でも掲載した地図を再掲します。

 

 上の地図は千葉県習志野市教育委員会が発行した「ドイツ捕虜収容所ガイドブック『ドイツ兵たちの習志野』」からの引用です。

 駐日ドイツ大使館関係者は「国民哀悼の日」に合わせて徳島県鳴門市や大分市のほかに何カ所くらい慰霊に訪れているのでしょうか。機会があれば聞いてみたいところです。

 

  
 

11/21/2023

あったはずが消えた 志手遺跡その2

  あるはずが、“幻”だった志手遺跡

 
 前回のブログ(10月21日付「あったはずが 消えた志手遺跡」)の最後に「残念ながら本格的な調査はなされないまま『志手遺跡』の名前は大分県の遺跡リストからは外されることとなりました」と書きました。

 ところが、その後、意外な話を耳にしました。

 「遺跡調査が行われたが、何も出てこなかった」というのです。



 土地の所有者がアパートを建てることになって、調査が行われたそうです。土器や何やらが発掘されるだろうと地域の住民も期待していたら、何も出ずに驚いたという話を聞きました。

 それが本当なら、「志手遺跡」はもともとなかったということになります。

 すると、次なる疑問が生じます。「誰が、何のために志手遺跡を“発見”したのか?」

 このブログの筆者が志手遺跡を知ったのは、大分県立図書館にある1955(昭和30)年発行の「大分市史」を見たからです。

 つまり、1955(昭和30)年以前に志手遺跡を“発見”した人がいたということです。今となっては、どんな人が何を見つけたのか、ちょっと調べようがないのですが、ぜひとも知りたいところです。

 遺跡発見の謎を調べることは現段階では難しいですが、発掘調査が行われたという年月を特定することはできそうです。カギは「アパートが建設された年」です。

 「調査したが、何も出なかった」と話してくれた人は「かなり昔のことだから」と言い、その年月までは覚えていませんでした。

 アパートの有無をチェックするのは「ゼンリンの住宅地図」でできそうです。毎年のように出版されていますから古い順から見て行けば、“遺跡”のところにアパートが建った年が特定できる、と考えました。


 前回のブログ「あったはずが消えた 志手遺跡」を書く際に、1967(昭和42)年と1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」(文化財保護委員会編)に「志手遺跡」があることを確認しています。

 1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」には、「埋蔵文化財包蔵地は、県教委が昭和46(1971)年度に実施した分布調査の成果をもとに若干の補正を加え」などと書かれています。

 ということは、大分県教育委員会が調査した1971年頃にはアパートは建っていなかったと考えられます。念のために1969(昭和44)年のゼンリンの住宅地図を見てみました。

 志手遺跡があったといわれる場所は田んぼでした。

 ここから順を追ってゼンリンの住宅地図を調べて行けば志手遺跡が“幻”と消えた時期が分かる。

 そう思って大分県立図書館に行ったのですが、ことは思うように運びません。かえって別の迷路に入り込んだような展開になってしまいました。

 (このあとは「続きを読む」をクリックして下さい)

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...