3/26/2024

毘沙門堂今昔 番外編 郷土史家・市場直次郎

 昭和を生き抜いた男 市場直次郎

 
 このブログのタイトルは筆者の勘違い、思い込みに由来しています。と言っても、何のことか分からないと思いますので、順を追って説明していきたいと思います。

 前回のブログ「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」の冒頭で、「豊後伝説集全」に収められた「志手の毘沙門天像」にまつわる言い伝えを紹介しました。

 薩摩の島津氏が大友氏の豊後国に攻め入り、大友氏の本拠地である府内は戦火に見舞われた。志手の毘沙門堂も焼かれ、安置されていた毘沙門天像は野に打ち捨てられた。後にそれを見つけて志手の村人が新たに御堂を建ててまつった。それが今の志手の毘沙門堂の始まりという話でした。


 この言い伝えが載っている「豊後伝説集全」。1932(昭和7)年6月に発行されたこの本の編者が「市場直次郎」となっています。

 「豊後伝説集全」は、市場直次郎が勤めていた大分県立第一高等女学校(現大分上野丘高校)の生徒たちに材料を求めて、大分県内に残るさまざまな言い伝え、伝説をまとめたものです。

 大分県立図書館の蔵書リストを見ると、市場直次郎は1933(昭和8)年、1936(昭和11)年に「豊後方言集」を発表するなど、この時期、民間伝承の調査研究に精力的に取り組んでいたことがうかがえます。

 前回の「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」にも書いた通り、このブログの筆者は、伝説集や方言集などを作った市場直次郎、十時英司、波多野宗喜とはどういう人たちだったのか、そこに興味を持ち、もう少し詳しく調べようとしてみました。

 ところが、このあとは「大分」「豊後」などをタイトルにした市場直次郎の著作が見当たりません。それで筆者は勘違いしてしまいました。市場直次郎が郷土史家として活躍したのは昭和初期から10年代までぐらい、いわゆる「戦前」の人だろうと思ってしまったわけです。

 もちろんこれは勝手な思い込み。明らかな間違いでした。

 市場直次郎は研究者として「昭和」を生き抜き、さまざまな成果と資料を残していました。

 「市場直次郎」とネットで検索すると、佐賀大学附属図書館貴重書アーカイブの「市場直次郎コレクション」が出てきます。

 市場直次郎は戦前は佐賀師範教授、戦後は佐賀県内の高校長や福岡の大学教授を務めながら、数多くの小説類など和書と文人の書画を集めたのだそうです。

 佐賀大学では市場直次郎のコレクションを購入し、それを整理して、ネットで閲覧できるようにしてあります。

 ところで「佐賀」の市場直次郎は「大分」の市場直次郎と同一人物なのだろうか。誰もが抱く当然の疑問です。

 「市場直次郎コレクション目録」という本が出版されていました。この中には市場直次郎の略歴もあるはずです。調べてみると、佐賀県立図書館、福岡県立図書館、福岡市総合図書館にこの本があるようです。

 大分県立図書館を通じて貸し出しを受けようと、県立図書館に行くと、大分大学付属図書館にもあるとのこと。早速大分大の図書館から借りるための手続きをしました。

 そして、佐賀と大分の市場直次郎は同一人物と確認できました

 上が目録にあった市場直次郎の経歴です。

 大分県立図書館の所蔵リストを見ると、市場直次郎の最後の著作は「西日本民俗文化考説」(九州大学出版会)で、出版年は1988(昭和63)年12月となっています。昭和天皇の崩御とともに翌1989年1月に元号は「昭和」から「平成」に改められました。

 市場直次郎はまさに民俗学者として昭和を生き抜いたといえます。

 雑誌「まつり」の1998(平成10)年7月号に「市場直次郎先生追悼」の記事があり、それによると、市場直次郎氏は1996(平成8)年7月18日に92歳で亡くなったそうです。

 記事によると、氏が大分から佐賀に移ったのは1936(昭和11)年ということでした。大分には90年も100年近くも前にいた人物ということで、忘れ去られるのも自然かもしれません。しかし、市場直次郎の名前とその功績がもう少し大分でも知られていてもいいのではと思います。

 

3/01/2024

毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績

橋の下の毘沙門天 すくってお堂に 




 志手の毘沙門堂については上のような言い伝えがあります。


 ウィキペディアを見ると、上の言い伝えにある島津氏と大友氏の戦いは「豊薩合戦」と呼ばれ、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われたとあります。

 ちなみに大友氏は豊薩合戦以前にも島津氏と戦って大敗(耳川の戦い)しており、その力は急速に衰えていったようです。そのため、島津氏の豊後国侵入を許し、本拠地の府内も戦火に見舞われることになりました。

 その様子が江戸時代に書かれた「豊府紀聞」にあります。
 

 漢字だけの文章は難解ですが、「府内に島津家久が入って」などと書かれていることは読み取れます。

 「豊府紀聞」には志手の毘沙門さまと毘沙門堂の由来についても記述があります。これは後ほど紹介するとして、ここで注目していただきたいのは、上の二つの「豊後伝説集全」「豊府紀聞」に共通するものです。

 上の写真の豊府紀聞の復刻版が出版されたのは1930(昭和5)年9月です。復刻版は限定55部の非売品で、発行所は「郷土史蹟伝説研究会」。そうです。「豊後伝説集全」を出したのも郷土史蹟伝説研究会でした。

 1932(昭和7)年6月に出版された豊後伝説集全には市場直次郎、波多野宗喜、十時英司の3人の名前があります。豊府紀聞(復刻版)には市場、十時両氏の名前がありました。

 郷土史蹟伝説研究会は十時氏や市場氏が中心になって作ったのでしょう。さまざまな形で大分の歴史を記録しておこうという十時氏らの強い意欲が感じられます。

 十時氏については、このブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」で、少し紹介しました。

 十時氏は1940(昭和15)年6月の豊州新報に「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」を連載しています。

 その中でお堂の毘沙門天像を調査し、造られたのが南北朝時代の「正平」年間(1346~1370年)ではないか、との推理しています。
 
 十時氏らが残した資料はこのブログの筆者にはとても貴重なものです。志手の歴史の一端を知る手掛かりになっています。

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