9/25/2023

地図から消えた「毘沙門川」

地図から消えた毘沙門川 そのわけは? 


 
 今回は「毘沙門川」について書いてみたいと思います。志手に「毘沙門堂」があり、その横を流れる小さな川が「毘沙門川」(上の写真)です。

 橋の欄干に川の名前が表示されています。読んでみると「住吉川」。あれ⁉「毘沙門川」ではありません。

 しかし、この川がかつて「毘沙門川」と呼ばれていたことは間違いありません。そして、それが由緒正しい川の名前であったことも。 
 

 「私の故郷 『志手』風土記」という本があります。著者は園田九洲男さん(故人)。志手に生まれ育った著者が少年時代の思い出をつづったものです。

 この本の「あとがき」で「できるだけ昭和20年頃の『志手』の様子を書いたつもりである」と著者は記しています。今から80年ほど前の志手の暮らしと風景が描かれているわけです。

 その中に次のような回想があります。

 「としんかみ(歳の神、志手、椎迫の境・毘沙門川の上流)で水遊びをすますと、村堤(かんがい用の溜池)で泳ぐ資格ができる」

 「毘沙門川の流れも『としんかみ』といっていた。小さな子どもたちの恰好の水遊び場で、ハエがたくさん泳いでいて、水もきれいであった」


 「としんかみ」と呼ばれた場所が冒頭の写真のあたりではないかと思われます。現在は大分市消防団大道分団西部の建物などがあります。

 志手の住民がこの川を毘沙門川と呼んでいたからといって、それが正式な名称だとは限りません。地元だけで使われる通称でしかないこともありえます。

 そこで地図を見てみました。大分県立図書館に収蔵されている昔の「大分市街図」です。
 

 宗像地図店(現ムナカタ地図店)という大分市の会社が発行しています。左が1963(昭和38)年発行で、右が1971(昭和46)年発行のものです。赤い枠で囲ったのが河川名です。

 左の地図では「毘沙門川」、右の地図は「住吉川」となっています。なぜか川の名前が変わっています。この間に何があったのでしょうか。

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9/04/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験④

園田英雄さん 消えない戦争の記憶④

進駐軍は隣り組 米兵が土足で家に 



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷」では、大分市が受けた空襲被害について少し書いてみました。

 今回は日本が降伏し、米軍の占領が始まる頃の大分がテーマです。

 米軍の大分進駐と同時に、園田英雄さん(故人)は米兵2人がいきなり自宅に踏み込んで来るという経験をしました。

 「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター ランイン・ポーター著 菅田絢子訳 みすず書房)に、その証言があります。

 10月13日、到着した進駐軍が兵舎の西大分駄原の陸軍少年飛行兵学校(※)に入ってまもなく兵士がふたりやってきました。武器を隠してないか一軒一軒調べていたのです。押入れを開けたり箪笥を開けたり。作業は鄭重なものでした。ただ腹が立ったのは靴履きで上がってきた!(笑)

 ※大分連隊が宮崎県都城市に移り、そこに1943(昭和18)年秋に少年飛行兵を養成する学校ができ、終戦とともに閉校になりました。

 大分にやって来た米軍は当面の宿舎として、終戦で閉校となった大分陸軍少年飛行兵学校(その前は大分連隊)の兵舎を使うことになりました。

 左は1921(大正10)年の大分市の地図の一部です。昔の地図を見ると志手の集落と大分連隊の位置関係がはっきりします。園田英雄さんが住んでいた志手は、大分連隊の“隣り組”になります。駐屯にあたり米兵は周囲に危険がないか調べに来たというわけです。

 ※ちなみに冒頭の写真は大分連隊跡とその周辺の現在の様子です。兵舎跡には大分大学教育学部付属小・中学校などができ、練兵場跡には大分市営駄原総合運動公園や大分県立大分西高校などがあります。


カービン銃を携えた米軍、緊張の顔合わせ

 

 米軍の大分進駐について1988(昭和63)年発行の「大分市史 下」(大分市史編さん委員会)から少し引用してみようと思います。

 連合軍=米軍による大分の占領が始まったのは昭和20年10月4日である。この日、米第5海兵師団(佐世保)所属のH・E・ベーカー大尉ら4人が先遣隊として列車で大分駅に到着、その足で県庁を訪ね、中村知事ら県終戦事務連絡委員会と占領軍受け入れについての打ち合わせを始めた。

 打ち合わせといっても、カービン銃を携え、拳銃を卓上に置いてのことで、時には気色ばみ、荒い声も出したというから、一方的な命令に終始したのだろう。

 大分市史では、日米関係者による緊張した初顔合わせの様子を上のように書いています。

 米軍を迎える大分県民は米兵に不安、恐怖心を抱いていましたが、米側も日本側の抵抗を警戒し、不信感、不安感がぬぐえずにいたのでしょう。

 大分市史は、ベーカー大尉は県外務課に、大分合同を含む新聞4紙の全紙面を毎日英文に翻訳して提出せよと無理難題をもちかけたが「殺されてもできん」と蹴ったこともある、というエピソードも紹介しています。

 相互不信による緊張も徐々に緩和されていくのですが、大分市史にはもう一つ興味深い話が載っていました。

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