「神田」説の次は「潮の手」説 を
「志手」地名考
左の資料は1955(昭和30)年発刊の「大分市史 上巻」にある「先史時代」の大分市の地図です。赤線は分かりやすいようにと筆者が付けました。先史時代の大分市の海岸線です。現在の海抜7mのラインのようです。
赤線の北側が海、南側が陸地。志手は地図の西側にあります。色鉛筆で〇をしてみました。この地図は何を意味しているのか。「志手はかつて海辺だった」ということです。
志手の地名の語源を「磯辺」「潮の手」とする説を考えるには、それが分かっていれば大丈夫です。
赤線を引いた上の写真のようなイメージでしょうか。赤い線から左側(北側)が海だった、と。
1955(昭和30)年に出された大分市史にはもう一つ興味深い資料があります。市内の「弥生式遺跡」の分布図です。地図に書かれた遺跡の一つが毘沙門川(現住吉川)沿いの志手遺跡。少なくとも弥生時代には志手のあたりには人が定住していたということになります。
人がいれば、その呼び名もあるでしょう。海辺に関連した言葉が「志手」の地名のルーツということは十分に考えられそうです。
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